俺は北口へと足を進めた。北口の街並みに変化はあるのだろうか?何より気になっていたのは,前回旅した時に出会ったY田さんのことである。Y田さんは大戸屋八王子店で店長候補として働いている筈である。Y田さんが作った大戸屋ランチを食べる,それが前回旅した際に,俺が心の中でした約束であった。
俺の足は自然にメロン交差点の方に向いた。メロン交差点とは正式名称ではない。ここは,以前軽トラックに乗ったメロン売りが出没し,俺やI藤K横,まるも,O野氏が騙されて高いメロンを買わされた場所なのだ。あの時,俺達はO野氏の「私はこういうの安く買うの得意なんですよ〜。任せといてくださいよ〜,M宅さん。」という言葉を信じたのだ。しかし,交渉は失敗,さらに持って帰ったメロンはまずかった。つまり二重に騙されたのだ。今回メロン売りの姿は見えなかったが,ルーズソックスやセリーヌ等のプラカード持ちの老人が多く立っていた。この風景も変わらないな。
この交差点のすぐ近くに大戸屋はある。俺は高まる期待を抑えながら階段を下りていった。カウンターに座り,注文を聞きに来た女子店員に尋ねる。「この店で働いてるY田さんってお元気ですか?」店員は困った顔で答えた。「Y田は1ヶ月前に辞めましたが…。」
俺は愕然とした。50円コーヒーをおかわりしている場合じゃない。夢を叶えるためにここで働いていたY田さんであったが,また挫折していたとは!俺は折角の大戸屋ランチも喉を通らず,ふらふらと店を出た。
Y田さん,どこに行ったんだ…。埼玉に戻ったのか,それともまた旅に出たのか。確かに旅立ちにはいい季節だが。しかし,電車に置き石がある等,確かにあの人の気配は八王子にある。様々な考えが頭に浮かんでくる。
その時,俺の耳に聞き覚えのあるテープ音が飛び込んだ。「…サクセスではコンパニオンを募集しています。サクセスでは只今の時間5,000円…」なんだ,サクセスの宣伝カーか。そんなものには用はない。今はY田さん…!俺は目を疑った。宣伝カーの窓からのぞいていたのは,丸坊主の頭,白いポロシャツ,まぎれもなくあの人の横顔だ!
俺は思わず走り出した。しかし信号は赤だ。どうしてこんな時に限って車が多いのだ?それでも俺は無理に車道に飛び出した。「バカヤロウ!あぶねえじゃねえか!!」トラック運転手の怒号が飛ぶ。やかましい!そんなことにかまっていられるか。俺はかまわず宣伝カーを追いかけた。だが,遅かった。俺は宣伝カーを見失ってしまった。しかし宣伝カーは同じルートを1周20分程でぐるぐると回っている筈だ。ここで待っていれば必ず戻って来るだろう。しかしその日に限って宣伝カーは二度と戻らなかった。
俺は交差点に立ち尽くしていた。人の流れは途切れることなく通り過ぎる。俺は考えていた。サクセスに乗り込んでいって確かめることも可能であろう。しかしあの店に行くことはリスクが大きすぎる。第一,俺が顔を出せばあの人はまた就職先を変えるかもしれない。それに笑顔を絶やさないあの人は,あらゆるサービス業に適性があるのではないか。あの人は望んでこの業界に入ったのだろう。きっと,たくさん買い込んでいた170分カセットテープは,サクセスの宣伝カーに使われたのかもしれない。だとすればY田さんに関する多くの疑問のうち一つは解決したことになる。
俺は目を閉じた。Y田さんは新天地に旅立ったのだ。俺達は黙って見守ろう。しかし何故サクセスに…。どうせならGAGやMAJIの方が…。俺は何か引っかかるものを感じながら北口を後にした。
MISSION6 ジャンボフィッシュロールを手に入れろ
俺は西国立駅を訪れていた。何故,そんなマイナー駅に?と言う人もいるだろう。しかし,この駅は俺達が多くの苦渋をなめた場所…立川病院に最も近い駅なのだ。それだけに,この駅には多くのドラマがあった。駅前のパン屋で早朝から売り出されるパンは,実習のために訪れた俺達はもちろん,多くのうだつのあがらないサラリーマンの心の拠り所であった。特に,この店の看板商品である「ジャンボフィッシュロール」は人気で,これを買えなかった日は一日中不機嫌な学生もいた。そのため,わざわざ早起きして駅のホームで待っている学生も出現する始末だ。愛するパンを待って駅のベンチに座っているT上さんの姿は,この駅の風物詩としてローカル誌に掲載された程だ。
今回のミッションはもちろん,このジャンボフィッシュロールを手にいれることだ。果たしてまだ売っているのか?

駅はすっかり姿を変えていた。駅舎は建て直され,さらに今風なカフェが駅内に入っている。見ると,このカフェ内でもパンを売っているではないか!なんということだ!これでは,あのしょぼくれたパン屋(正式名称不明)はひとたまりもない。俺は目の前が真っ暗になった。あの店が無くなったら,俺はT上さんに何と報告すればいいのだ?俺は恐る恐るパン屋を探した。
あった!まぎれもなくあの店である。新しくなった駅とは対照的に,この古びたパン屋は全く変わっていない。しかし,ジャンボフィッシュロールはまだ売っているのだろうか?
……。涙が頬を伝った。売っていたのだ。涙でにじんではいるが,間違いなく「ジャンボフィッシュロール 180円」と書かれている。在庫は3個だ。
俺は迷わず購入した。消費税込みで189円。おばちゃんも変わっていないな。魚フライがタルタルソースで味付けされた安っぽいがどこか懐かしい味は健在なのか?一口かじってみる。
…。「うめぇっ!」まだ,まるも口調は現役だ。T上さんに伝えねばなるまい。「あなたの愛したあの味は健在なんですね〜」と。
立川の待機室,あの緑色のカーペットの上で食べたあの味だ。この安いパンを奪い合う奴,買い占める奴,ペットボトルでちびちび茶を飲みながら食う奴。いろんな奴がいた。立川の朝には様々なドラマがあった。それらの記憶がこのパンをかじる度に蘇ってきた。ここまで来たら向かわなければなるまい。俺達の戦場だった,あの立川病院に。
FINAL MISSION 立川病院の現状を調査せよ
国家公務員共済組合連合会立川病院。ここは俺達が実習を受けた場所であり,多くの試練を乗り越えた思い出深い場所である。病院理念は『質の高い,思いやりのある医療を実践する』
であり,病院の目標は,
1.全職員が患者さんの窓口になり,笑顔と優しい言葉で接する
2.患者さんの権利を尊重し,迅速で的確な診断と治療を提供する
3.質が高く信頼できる医療を提供するために職員は日々研鑽する
の三つである。多くの優秀な医師や看護師を擁するが,その一方では,講義中に居眠りする小児科のM川医師,実習に来た学生を自分の気分次第でイビる産婦人科のS藤,似ていて紛らわしいA保とN沢,過剰なサービス・整形外科のT毛田等多くの名物職員も輩出している。実習を受けていた際は,多量のレポートや宿題,短い睡眠時間,ヤンキーナース達のいやがらせ等で極限状態に陥った学生も多くいたが,卒業してしまうとそれらもいい思い出だ。
踏切を越え,自衛隊の施設を横目に立川病院を目指した。変わらない風景だ。地味なポロシャツを着て実習に向かったあの頃を思い出す。まず俺は別館に向かった。
別館には俺達学生が着替えたり,休憩したりする待機室の他,食事を提供する「キッチンきのした」がある。「キッチンきのした」は八王子の一富士と並び賞される程の名店で,病院内の飲食店であるにもかかわらず栄養バランスを全く考えない寛容さが学生に受けていた。今でも炭水化物ばかりの食事を学生に出しているのかな。俺は店内を覗き込んだ。ありふれたメニューが書かれた看板,内装等,店内は全く変わっていなかった。この分だとあの学生用定食も健在なのだろう。
待機室は当然ながら鍵がかかっていた。この待機室にも多くの思い出がある。二週続けて待機室実習になり,マジ切れするS渡大祐。S痔さんに眠りを邪魔されて怒り,蹴とばしたY小。実習最終日,受け持ち患者がお礼の紙幣を渡すまで帰らないI藤K横を待ち,時間をつぶすS痔さん。学生の留守中,文庫本を読み耽るU枝先生。いっしょに実習をまわる筈のY田さんがリタイアしたため,一人寂しく実習に向かう俺。緑色のカーペットに生息するダニの数程の思い出がここにはある。いよいよ次は本館だ。
今日も混み合っている1F受付前を通り,エスカレーターで2Fに上がる。俺は思い出深い病棟を順にまわっていくことにしたのだ。2Fには小児科と産婦人科がある。ここでは実習中最も多い5週間を過ごしたため,最も思い出の多い場所といえる。恐ろしいイメージだったS羅坂先生が真面目にやっている学生には意外に親切だったこと,それでもT上さんには冷ややかだったこと,満期風を吹かして最終日にクリスマス会の飾り付けをしたこと,産婦人科でS藤にいやがらせを受けたこと…。S藤のことを思い出し,俺はムカムカしてきた。あの旦那の趣味で毎日の衣装を変えるコスプレ女は,出産後もまだ産婦人科にいるのだろうか。俺は新生児室で某事件の被疑者の子供を受け持った。その時感じた「子供は親を選べない」というのはあのS藤にもいえることだ。S藤に育てられたらどんなに純真な子供でも悪に染まるであろう。本当にS藤に出くわしたら大変なので俺は2Fを後にした。お世話になったS羅坂先生に会いたかったが…。

階段を登る際,懐かしい人とすれ違った。6F担当だったA保さんである。短い髪のボーイッシュな雰囲気はそのままだ。恐らく一学生であった俺のことなど覚えていないだろう。A保さんは隣を歩く若いナースをまくし立てるように話しかけながらすれ違っていった。あの人も変わっていない。今でもきっといいかげんな採点をしているのだろう。俺はリネン室でさぼってばかりいたI藤ミッチーと同じ評価をされたことを思い出し,また気分が悪くなった。その時,今すれ違ったばかりのA保さんがまた正面からやって来たため俺は驚いた。どういうことだ?今,あの人は向こうに行ったはずだ。これはS痔さんと同じような遠距離型のスタンド能力?しかし俺はその人物がA保さんと微妙に違うことに気が付いた。そうか!あれは,ドクターから「紛らわしいから変えてくれ」という要望を受け,小児病棟に飛ばされたN沢さんに違いない。あの人も元気そうで良かった。
俺は3Fにやって来た。ここは整形外科病棟,T毛田先生のテリトリーだ。あの先生にもずいぶんお世話になった。患者の搬送等で過剰なサービスシーンを披露するのは勘弁だったが。T毛田先生はここにいるのだろうか?
その時,俺は背後に異様な気配を感じた。立川病院の警備員が二人,こちらの様子を伺っている。明らかに俺を見ているではないか。俺は警備員の背後に白衣を着た女が立っていることに気が付いた。「警備員さん。あの人です!婦人科をうろついていた怪しい人は。」S藤!あの女か!?はめられた!
俺は身体を翻し,駆け出した。椎間板ヘルニアの既往はあっても足には自信がある。警備員二人をうまく振り切った。しかし,正面からもう一人の警備員が迫ってくる。しまった!もう一人いたか。警備員は俺の両手をつかんできた。しかし,俺は仮にもプロフェッショナルである。つかまれた右手を外し,腕を制する。「えいっ!」いわゆる「両手取り」だ。警備員は自分の膝近くを二度叩き,苦痛に顔を歪める。この警備員もノリノリだ。そうしているうちに二人の警備員が迫ってくる。俺は食べかけのジャンボフィッシュロールを投げつけた。パンに足を滑らせ,警備員は見事にひっくり返った。振り向きもせず,俺は全速力で駆け出した。

俺は南病棟の前まで来ていた。ここまで来たら大丈夫であろう。うまく逃げることができた。食べかけのジャンボフィッシュロールは少し惜しかったが。ちくしょう,S藤の奴!相変わらず最低な女だ。
南病棟は精神科と内科,いわゆるS1,S2の2フロアーから成る。S2病棟は俺が最初に実習を受けた場所で,強く印象に残っている場所である。もっとも,いっしょに実習を受けたのがI藤K横とS痔さんの無駄に話の長いハリキリペアで,不快な思いもずいぶんしたが。ここでは秋間さんという名物患者さんがいた。学生三人が順番に受け持ったこの患者さんの記録は,「秋間三部作」として今も凶夢に残っている。最初に受け持ったS痔さんは,二週間後に偶然再会したところ顔を忘れられていたというオチもあった。
しかし,S2の婦長にはずいぶんお世話になった。実習担当者のH羅が感情に左右されやすいS藤と似たような人物だったため,その人格の素晴らしさがより際立っていた。俺は今まで尊敬できる看護者には2〜3人しか会っていないが,ここの婦長はその中の一人である。婦長に教えられたナイチンゲールの「三重の関心」は俺の心に強く刻まれている。
さて,これからどうするか。S藤がしたように,H羅に通報されたらまずい。いつまでも思い出に浸ってはいられないな。俺は立ち去ることに決めた。
それにしても,よくよく振り返ってみるとこの病院にはろくな思い出がないな。思い出は思い出のまま仕舞っておいた方が良かったのかもしれない。思い出は美化されやすいのだ。俺はそれを嫌というほど思い知った。
終章
俺は新幹線の窓から通り過ぎる景色を眺めていた。今回の7つのミッションを無事に終え,その達成感と心地よい疲労が俺の瞼を重くさせる。思い出は美しいままに…か。帰ったら報告をしないといけないな。俺の報告を心待ちにしている人がいる。俺達の愛した八王子,立川に訪れた近代化の波のこと,それでも変わらなかった多くのこと。俺は静かに目を閉じた。次に東京を訪れるのは来年の三年後研修だろうか。それともY小の結婚式か。列車は静岡を通り過ぎ,名古屋に向けて加速していった。眠りに落ちていく俺の頭の中で,「八王子音頭」の音色がいつまでもリフレインしていた。
旅日記関東編 新章 完