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概要
三重県津市。昔は「安濃津(あのつ)」と呼ばれたこの都市は,長い海岸線の中間に位置している。慶長年間,安濃津は藤堂高虎32万石の居城として,また,江戸時代には伊勢街道も通じて,「伊勢は津でもつ,津は伊勢でもつ」という繁栄を示した。
津に流れる岩田川の河口より南の海岸を阿漕浦というが,この地方に伝えられる物語に,「幸子阿漕平治」がある。貧しい漁師だった平治が,母親の病に効くとされる「矢柄(やがら)」という魚を捕りに神宮御用の禁漁区に入漁していたが,嵐の日に笠を浜に置き忘れたことからそれが発覚し,捕まってスマキにされ阿漕浦に沈められたという話である。
「月の夜に 何をあこぎに 鳴く千鳥」
これは松尾芭蕉が詠んだ悲しみの句である。その句碑は阿漕浦に残っている。
さて,三重県で有名な焼物といえば伊賀焼(いがやき)と万古焼(ばんこやき)の二つがある。阿漕焼は,万古焼の源となる古万古焼(こばんこやき・江戸中期〜後期)の姉妹窯であった古安東焼(こあんとうやき・江戸中期)の再興窯として,1850年ころに開窯した。当初は,再興安東焼とされていたが,1860年ころ,船頭町に窯を移し,その地名の阿漕浦から阿漕焼と呼ぶようになったのである。
「幸子阿漕平治」の伝説から,謡曲「阿漕」が全国的に知名度が高まったことに便乗したかたちである。以後,幾多の職人達が興亡を繰り返したが,1931年(昭和六年),伊賀丸柱出身で四日市万古焼の職人であった故 福森円二(ふくもりえんじ)が,当時の市長の依頼で現在の場所に開窯した。
現在の阿漕焼は「福森阿漕」と呼ばれ,初代・円二(えんじ・1901〜1977),二代・博(ひろし・1935〜1998),三代・資(はじめ・1961〜 )と受け継がれている。
津城跡(つじょうせき)
早春の雨の中,私は津を訪れた。津駅から一駅の津新町駅の北東に津城跡がある。慶長以来,明治になるまでの260年間,藤堂藩の政治の中心となった城である。現在は本丸と石垣が残っているだけだが,緑の多いきれいな公園として整備されている。天気さえ良ければ多くの人が散歩しているに違いない。雨に濡れた緑が清々しかった。
偕楽公園
津駅より北西には偕楽公園がある。以前は「御山荘」(ごさんそう)といい,津藩第11代藩主 藤堂高猷が,安政年間(1854〜1860)に別荘を設けたのが始まりであるという。偕楽という名は高猷の俳号からとったものだという。桜の咲き始めるころで,屋台や出店が多く並んでいたものの,生憎の雨で全く人気はなかった。しかし自然の丘陵が生かされた園内は美しく,私は小雨の中をしばし散策した。
福森窯
津駅より徒歩5分程の所に「阿漕焼福森窯」の陶房がある。突然訪れた私に,現在の当主である福森 資(はじめ)氏が気さくにお茶を出してもてなしてくれた。丁度,小学館の「ラピタ」という雑誌の取材を受けた直後だったという。
陳列場には御本や刷毛目,三島といった茶碗や水指,建水,花器等,バラエティ豊かな作品が整然と並んでいた。それらの作品を見せていただきながらお話をうかがった。
現在,阿漕焼が作られているのはここ福森窯だけである。福森窯周辺は住宅等が多くなったこともあり,電気窯とガス窯を用いているという。しかし,作品によっては薪を使う必要があり,その場合は山奥まで行って焼くこともあるそうだ。
阿漕焼は主に地元の土を用いるのだが,この土は茶黒い地肌の素朴な味わいがある。粘土の中に阿漕浦の真砂(雲母)を混ぜて焼くこともあるという。また,芭蕉の句に出てくる「千鳥」をモチーフにした作品が多いことも特徴である。
資氏はロクロよりも※紐作りを好まれ,多くの作品を紐作りで成型されているという。紐作りで作られた作品は手にしっくりと馴染む。
※細長くひも状にした粘土をのばして,ヨリをつくり,それを円形に積むのを繰り返しながら,段々重ねてゆく技法のこと
現在は,まさに精巧さを尊んだ時代から,素朴さや手作りを尊ぶ時代を迎えている。選手交代を繰り返しながら何度も甦った阿漕焼は,福森窯にしっかりと根をはり更なる発展を遂げようとしている。